ゲーム理論を用いた表情戦略の考察

一次的表情と二次的表情

心理学や脳生理学の研究から,人間の感情や表情の表出には, 大きく二種類に分かれるとされている[岡田 01,海保 00]. ここでは,二種類の表情を一次的表情と二次的表情と呼ぶ. 一次的表情は,意図せずに思わず出してしまうような表情であり, その人間の心理状態を率直に反映している. 一方,二次的表情は,意識的に表出する表情であり, 目的や戦略を反映している. 主に自分が有利になるように 自分の表情を選択するもので, 戦略的に用いる表情であると言える.

表情を受け取った立場で考えると,表情には 印象としての役割と 情報としての役割の二つがあると考えられる[海保 00,湯浅 01]. 印象としての役割とは, その表情によって相手への好感度や心理状態が変化することをいう. 相手への好感度や相手の提案に対する好感度, 心理状態の変化により,一次的表情が表出される. また,心理学の研究では,心理状態や対人感情によって, 当事者の意思決定が変化する 場合があるとされている[斎藤 90,海保 97].

情報として役割とは, 相手の表情から相手の心理状態や意図を推測することをいう. 相手が戦略的に表情を選択しているときには, 正確に情報を解釈することは難しいことがある.

一次的表情と二次的表情のゲーム理論的考察

一次的表情は,心理状態を反映した正直な表情である. 二次的表情は,相手に対して戦略的に用いる表情である. 裁判などのように対立的な場合では, 戦略的な二次的表情を多く用いたほうが有利になれる可能性があり, 一次的表情は用られる機会が少なくなることになる. しかし,一方で,和解のように協調的な場合では, 正直に自分の表情を表出する方が得なこともある. そこで, 正直な一次的表情を表出するときと 戦略的な二次的表情を表出するとき のどちらを相手に示すかという問題を ゲーム理論で考察する. いずれかの表情を表出したときの利得行列を表1とし,aからdの値を考える. 例えば,自分が二次的表情を用いて相手が一次的表情を用いたとき, 自分が得られる利益がc,相手の利益がbである. aからdの大小関係は以下のようになる.

もし二次表情を出されて騙された一次表情を表出する主体の 利益bが十分に小さい,あるいはaが十分に大きい等の場合は, が成り立つ.この場合,囚人のジレンマゲーム(かつ)になり, 一次的表情,二次的表情の持つ主体のゲーム状況は, 「一次的表情を出して協力するか, 二次的表情を出して協力しない」という状況に あるゲームと考えることができる. 一次的表情を用いるときには, 例えば, 「相手が正直に一次的表情を用いることに対して こちらが二次的表情を用いて相手を裏切る」という誘惑がある.

このような状況にあるときには, お互いに一次的表情を用いることを事前に約束しておくこと等が 必要であると考えられる.

ソフトゲーム理論

ソフトゲーム理論は, 囚人のジレンマの状況のような意思決定状況にある二者が, 相手に対する感情を持っていると想定し, そのときの意思決定行動を取り扱ったものである [Howard 90,猪原 02b,猪原 02a,木嶋 01].

通常のゲーム理論では,プレイヤ同士の間の感情的な関係については考慮していない. しかし,現実の意思決定状況では,相手に好感を持っているかどうか, 好きか嫌いか,といった感情的な関係がプレイヤ間に存在することがある. そして,そのような感情的な関係が意思決定に影響を与える可能性がある. たとえば,好感を持てる相手とともに意思決定をしなければならないとき, その相手にとって望ましいことをしようとする,というような 「献身的な行動」をとるかもしれない. 逆に,嫌いな相手と意思決定をしなければならないとき, 相手の望むことをあまり考慮せず,「敵対的な行動」をとるかもしれない. このように相手との感情的な関係により, プレイヤの意思決定を大きくかわる可能性がある. そのため,ソフトゲーム理論では, 相手の望むことに対して「献身的な行動をとる」 あるいは「敵対的な行動をとる」ということの予想に, プレイヤの持っている感情を用いている.

さらに,献身的あるいは敵対的な行動をするためには, 相手のプレイヤが望むことを知る必要がある. プレイヤの望むこと,すなわち,各プレイヤがどの結果を導きたいと考えているかを 知るためには,どうしても情報交換が必要である. 通常,囚人のジレンマやチキンゲームの状況などの意思決定状況では, 当事者同士の事前の情報交換を考慮しない. しかし,ソフトゲーム理論では,相手プレイヤの望むことを知るために, 当事者が戦略を選択する前に,情報を交換する機会が与えられているとする. たとえば, 「あなたが協力するならば,私は協力します, そうでなければ私は協力しません」 ということをあらかじめお互いに 宣言し,その後,実際に意思決定をすることを想定している.

事前に交換される情報は,「約束」と「脅し」から成り立つ. たとえば,「あなたが協力するならば,私は協力します, そうでなければ私は協力しません」という事前情報では, 「あなたが協力するならば,私は協力します」の部分は 「約束」であり, 「そうでなければ(あなたが協力しないならば)私は協力しません」 の部分は,「脅し」である.

2.1は,囚人のジレンマの状況を示したものである. このときの交換情報は,表2.2の1列目になる. たとえば,これらの表における「(C,C),D」は, 交換情報「あなたが協力するならば,私は協力します, そうでなければ私は協力しません」という意味を示す.


表 2.1: 囚人のジレンマの利得行列
  相手
  協力C(黙秘) 非協力D(自白)
自分 協力C(黙秘) 3,3 1,4
  非協力D(自白) 4,1 2,2

表 2.2: 囚人のジレンマにおける交換情報,約束,脅し
交換情報 約束の誘惑 脅しの誘惑 肯定的感情を持つとき 否定的感情を持つとき
(C,C),D (D,C) なし (C,C),D (D,C),D
(C,D),C (D,D) (D,C) (C,D),D (D,D),C
(C,D),D (D,D) なし (C,D),D (D,D),D
(D,D),D なし なし (D,D),D (D,D),D

情報を受け取った側は,受け取った情報と与えられた状況から その情報が信じることができるかどうかを判断する. 約束の場合は,「約束に対する誘惑」の有無によって信頼性が評価される. 「約束に対する誘惑」とは,約束よりも好ましい戦略である. 約束を述べた主体が約束を守らないことで, この戦略が選択される可能性があり, 誘惑が存在する約束は信頼性が低い. たとえば「(C,C),D」は, 「あなたが協力するなら,私も協力する」 という約束であるが, 「あなたが協力するなら,私も協力する」の言葉に 素直に従って協力したとしても,相手は 協力せずに裏切る(=D,C)かもしれない,という誘惑がある. このような約束は信じることができない. 同様に,脅しに対する誘惑とは,脅しよりも好ましくない戦略である. 誘惑が存在する脅しも信頼性が低い. なお,約束,脅しには誘惑が存在しないときもあり,このときは, その約束と脅しは信じることができる. 表2.2の2列目と3列目は囚人のジレンマにおける誘惑と脅しを示してある.

そして,ソフトゲーム理論では, 主体は相手に対して肯定的な感情または否定的な感情のどちらかを持つものとする. この感情はゲームにおいて変化するものではなく, ゲームの始めから主体があらかじめ持っているものとする. さらに 「肯定的な感情は,誘惑を持つ約束に信頼性を与える」, 「否定的な感情は,誘惑を持つ脅しに信頼性を与える」 とする. これにより,相手が「(C,C),D」の情報を伝え, 肯定的感情を持っているときには,たとえ誘惑があったとしても, 「あなたが協力するなら私も協力する」という約束を信じることができる. しかし,否定的感情を持っているときは,約束を信じることはできない. つまり,相手に肯定的感情を持っている場合と否定的感情を 持っている場合によって,情報の信頼性が異なるとする. 肯定的感情あるいは否定的感情を持つときに信じることのできる情報を 表2.2の4列目と5列目に示す.

交換された情報の信頼性が評価された後で,次に主体は戦略を選択する. 主体が双方が良い感情を持っているときには, 誘惑が消え, 相手の情報を信じることができ協調行動ができる. よって,良い意思決定のためには, 主体間の感情を良い状態に保つことが必要である. たとえば,良い表情をお互いに表出することで,お互いの感情を良くし, 協力することも考えられる.

ソフトゲーム理論の状況における表情戦略

ソフトゲーム理論では, 感情はあらかじめ主体が持っており, 肯定的感情を持っているか,否定的感情を持っているかにより, 意思決定が変化する. しかし,主体間の感情を与えられたものとすることは 現実的ではなく,何らかの理由によって感情を判断することが望ましい.

そこで,ソフトゲーム理論における感情は, 相手からの事前情報と表情によって発生するとする. プレイヤ同士は「(C,C),D」といった 約束と脅しの組合せに加え,表情も 事前情報として交換されるものとする. このときに,交換された約束や脅しに信頼性があるとする. 信頼性は,約束や脅しに誘惑が存在するか否かによって判断される. 囚人のジレンマ(表4.8)と チキンレース(表4.9) の状況における交換情報と誘惑を示すと, 表4.10,表4.11になる. たとえば,囚人のジレンマの場合で 「あなたが黙秘するなら,私は黙秘します.そうでなければ自白します((C,C),D=約束(C,C),脅し(D,D))」 という情報を交換したとする.このときには 相手が黙秘しているにも関わらず,こちらは自白してしまうという 「約束の誘惑(D,C)」がある(表4.10の3列目). チキンレースの場合では, 「あなたが避けるなら,私は避けます.そうでなければ避けません((C,C),D)」 という情報を交換した場合は, 相手が避けるにも関わらず,こちらは避けないで済ますという「約束の誘惑(D,C)」と(表4.11の3列目), 相手が避けたのに,こちらも避けてしまうという脅しとして成り立たなくなる 「脅しの誘惑(C,D)」がある(表4.11の5列目). そして,交換された情報における誘惑の有無によって, その情報の信頼性が判断されることになる.


表 4.8: 囚人のジレンマの利得行列
  相手
  協力C (黙秘)  非協力D(自白)  
自分 協力C(黙秘)  3,3 1,4
非協力D(自白)   4,1 2,2

表 4.9: チキンレースの利得行列
  相手
  協力C (避ける) 非協力D (避けない)
自分 協力C(避ける) 3,3 2,4
非協力D(避けない) 4,2 1,1


表 4.10: 囚人のジレンマにおける交換情報と誘惑
交換情報 約束 約束の誘惑 脅し 脅しの誘惑
(C,C),D (C,C) (D,C) (D,D) なし
(C,D),C (C,D) (D,D) (C,C) (D,C)
(C,D),D (C,D) (D,D) (D,C) なし
(D,D),D (D,D) なし (D,C) なし

表 4.11: チキンレースにおける交換情報と誘惑
交換情報 約束 約束の誘惑 脅し 脅しの誘惑
(C,C),D (C,C) (D,C) (D,D) (C,D)
(C,D),C (C,D) なし (C,C) (D,C)
(C,D),D (C,D) なし (D,C) なし
(D,C),D (D,C) なし (D,D) (C,D)



表 4.12: 囚人のジレンマにおける表情と誘惑の解消
  • (a)肯定的表情を用いたとき
交換情報 約束 約束の誘惑 誘惑の解消
(C,C),D (C,C) (D,C)
(C,D),C (C,D) (D,D)
(C,D),D (C,D) (D,D)
(D,D),D (D,D) なし -

  • (b)否定的表情を用いたとき
交換情報 脅し 脅しの誘惑 誘惑の解消
(C,C),D (D,D) なし -
(C,D),C (C,C) (D,C)
(C,D),D (D,C) なし -
(D,D),D (D,C) なし -



表 4.13: チキンレースにおける表情と誘惑の解消
  • (a)肯定的表情を用いたとき
交換情報 約束 約束の誘惑 誘惑の解消
(C,C),D (C,C) (D,C)
(C,D),C (C,D) なし -
(C,D),D (C,D) なし -
(D,C),D (D,C) なし -

  • (b)否定的表情を用いたとき
交換情報 脅し 脅しの誘惑 誘惑の解消
(C,C),D (D,D) (C,D)
(C,D),C (C,C) (D,C)
(C,D),D (D,C) なし -
(D,C),D (D,D) (C,D)


ここではさらに,信頼性は表情によって判断されるとする. 表情には 肯定的感情を生起させる「肯定的表情」と 否定的感情を生起させる「否定的表情」 があるとする. これは従来研究において, 表情の受け手の側が表情に対する情動反応が 活性化されることに基づく[岡田 01]. たとえば,喜びの表情に対して幸福な気分が生起したり, 不機嫌な表情に対して,不機嫌な感情が生起したりすること等 があると主張されている.ここでも HAPPYなどの肯定的表情が肯定的感情を, ANGRYなどの否定的表情が否定的感情を作り出すとする.

そして,肯定的表情を表出すれば約束の信頼性が上がり, 否定的表情を表出すれば脅しの信頼性が上がるとする. 約束,脅しの信頼性が上がることで, それぞれの誘惑が解消され,約束,脅しが 信頼できるとする.表情ごとの誘惑の解消を示したものが 表4.12と 表4.13である.表情によって解消する場合には4列目に○印を つけてある. たとえば,囚人のジレンマの場合では, 「あなたが黙秘するなら,私は黙秘します.そうでなければ自白します((C,C),D)」 という情報を交換した場合は, こちらは自白してしまうという 「約束の誘惑(D,C)」があるが, 肯定的表情を送ることで,誘惑(D,C)を解消し,黙秘するなら黙秘(C,C)を 信じさせることができるかもしれない(表4.12(a)の4列目). チキンレースの場合では, 「あなたが避けるなら,私は避けます.そうでなければ避けません((C,C),D)」 という情報を交換した場合は, こちらは避けないで済ますという「約束の誘惑(D,C)」があるが, 肯定的表情を提示することで, 誘惑の「相手が避けるなら避けない(D,C)」を解消し, 自分と相手にとって良い選択肢である 「相手が避けるなら避ける(C,C)」を 信じさせることができるかもしれない(表4.13(a)の4列目). さらに, 否定的表情を提示することで, 脅しの誘惑である「相手が避けないなら避ける(C,D)」を解消し, 自分と相手に取って悪い選択肢である 「相手が避けないなら避けない(D,D)」を 信じさせることができるかもしれない(表4.13(b)の4列目).

これらのことを数式で以下のように示す. プレイヤ$ i$がプレイヤ$ j$に交換情報$ \iota_i$と表情$ f_i$を 提示したときのプレイヤjの信頼性$ c_j$を関数$ C_j$で示すと,以下になる.

$\displaystyle c_j = C_j ( \iota_i , f_i )$     (4.1)

プレイヤは信頼性に基づき戦略を選択する. 約束の信頼性が上がり,相手に”約束が実行される”と判断させたときには, 相手は約束を信じ,約束を実行することに対応した行動を選択する. 脅しの信頼性が上がり,相手に”脅しが実行される”と判断させたときには, 相手は脅しを信じ,脅しを実行することに対応した行動を選択する. 信頼性によって戦略$ d_j$を選択することを関数$ D_j$で示すと以下になる.
$\displaystyle d_j = D_j ( c_j ) = D_j ( C_j ( \iota_i , f_i ) )$     (4.2)

そして,こちらから相手に表情を送ることで, 相手の信頼性を変え,意思決定を変更させることが期待できる. つまり,表情の表出には次の戦略が考えられる.

以上のようにソフトゲーム理論の状況において, 信頼性を変えさせるために表情を戦略的に用いることを 導入した. プレイヤは上記のように表情の戦略を選択することで 相手の信頼性を変化させ,さらに相手の意思決定を 変えられる可能性がある.

参考文献

  • Masahide Yuasa, ``Strategies using Facial Expressions and Gaze Behaviors for Animated Agents'', AMiRE 2005, Fukui, Japan, 2005. (pdf)

  • 湯浅将英, ``オンライン交渉における擬人化エージェントの表情表出'', 東京工業大学大学院知能システム科学専攻博士論文,2004.

  • 湯浅, 安村, 新田, ``交渉における擬人化エージェントの表情戦略'', 人工知能学会研究会資料, 第62回 知識ベースシステム研究会(SIG-KBS)合同エージェントワークショップ&シンポジウム2003(JAWS-2003), pp. 426-431, 2003.(pdf)

    岡田 01
    岡田, 三嶋, 佐々木: 身体性とコンピュータ, 共立出版 (2001).

    海保 00
    海保: 瞬間情報処理の心理学, 福村出版 (2000).

    湯浅 01
    湯浅,安村,新田: 交渉エージェントにおける表情の役割, 人工知能学会研究会資料,SIG-KBS (2001).

    斎藤 90
    斎藤: 対人感情の心理学, 誠信書房 (1990).

    海保 97
    海保: 「温かい認知」の心理学, 金子書房(1997).

    Howard 90
    Howard, N.: 'Soft' Game Theory, Information and Decision Technologies, Vol. 16(3), (1990)

    猪原 02a
    猪原 健弘:感情と認識, 第2-3章, 勁草書房 (2002)

    猪原 02b
    猪原 健弘:合理性と柔軟性, pp. 111-125, 勁草書房 (2002)

    木嶋 01
    木嶋 恭一:ドラマ理論への招待, 第5章, オーム社 (2001)

    Ekman 87
    Ekman, P. and Friesen, W.: 表情分析入門, 誠信書房 (1987)

    Ekman 92
    Ekman, P.: 暴かれる嘘, 誠信書房 (1992)